Call my name





 遠坂が風邪を引いたらしいことを知ったのは、学校のホームルームの時間だった。坦々と、必要事項を読み上げる響きで担任から告げられた「遠坂凛は風邪により欠席」という事実を受け入れるのに数秒ほど時間を必要とし、次に思ったのはこれからどうするかということ。
 反射的に沸きあがった鞄を持って教室から飛び出したい衝動を、通りすがりの他人の遠さの理性によって捻じ伏せ、かろうじて踏みとどまる。
 もし、俺がここで早退して看病にいっても遠坂はきっと怒るだろう。あいつはそういう奴だ。人のことは放っておかないくせに、自分のことになると出来ることは全部自分でなんとかしちまう。それによって誰かに迷惑をかけようなんて思いもしない奴だ――こっちの気持ちなんか知らないで。
 正直、怒ってる。出来るなら今すぐ駆けつけて怒鳴りつけてやりたいくらい。
 けど遠坂の考えてることもわかる。もし逆の立場なら俺だって多分同じコトをした。心配なんてかけたくないから、自分が大丈夫だと思ったなら黙って休んだだろう。
 俺に連絡してこないっていうのは、そんなに酷い状態じゃないっていう遠坂からのメッセージに他ならない。
 わかってる。……それは、わかるんだ。
 だけど、だけどな。
 それでも、心配くらいさせろってんだ馬鹿。
 もう、こうなったら意地だ。俺が折れちまうかどうか我慢比べだ。……よく考えなくても自分がとんでもなく不毛な独り相撲をしてるような気はする。けど、今回ばっかりは何一つこっちに対して文句を言わせないようにして、遠坂に言ってやらなきゃ気が済まない。
 じりじりと過ぎていく時間の中で時計を睨み付け続ける。
 早く、早く遠坂の顔を見たい。
 ――ただ、ずっとそれだけを考えていた。





 全ての授業とホームルームを終えてすぐ、教室を飛び出して商店街へと向かう。軽い食事を作れる程度の食材と2リットル入りのポカリを買った。とりあえずこれだけあればどうにか看病出来るだろう。あとは遠坂の家にあるものを使わせてもらえばいい。
 坂道を上り、見慣れた遠坂の家について鞄の奥から合い鍵を取り出した。
 チャリ、と掌の上で小さく音を立てたそれを感慨深く見つめる。
 もう随分前に遠坂の手から渡されていたコレを使うのは数えるほどしかなく、承諾も無しにこうして勝手にやってきたのは今日が初めてだった。
「遠坂、お邪魔するからな」
 一応礼儀として一声かけてから家の中へと身体を滑り込ませる。遠坂は二階の部屋にいる筈。勝手知ったる遠坂の家、まずは買ってきたものを台所に置かせてもらうことにする。
 ビニール袋が擦れる音、食材を出していく音――そんなのが妙に耳に付く。
 シンとした空気。
 やけに静かだ。それだけでなんだか落ち着かない気分になる。ただ一人の家主が病に臥せっているとこんなにも静かになるものなのか。まるで、この屋敷自体までもが病気のようだ。
 我知らず急く足取りで遠坂の部屋を目指し、軽くノックをして入る。
「……遠坂。俺だ。入るぞ」
 静かに、音を立てないように入り――立ち竦んだ。
 どうして、だろう。
 暖房が効いてるはずの部屋は、何処か薄ら寒かった。在るはずの人の気配は稀薄。まるで廃墟のように感じる虚ろさ。
 沸き上がる不吉な予感を払拭するためにわざと音を立てて歩みを進める。
「遠坂? 寝てるのか……」
 そうして、ベッドの上で眠っている遠坂を見つけた。
 ほぅ、と思わず安堵の吐息が零れ落ち、へたれ込みそうになる身体を適当に引き寄せた椅子に預けて座る。……本当、安心した。ちゃんとここに、手の届く場所に遠坂がいる。とにかくそれでさっきの不安が跡形もなく消えてくれた。
 熱でもあるのか、うっすらと額に汗をかきいつもより紅潮した頬。軽く触れた額は少し熱いような気がした。
 と、伏せた睫が小さく震え、ゆっくりと遠坂の瞼が開いてゆく。
「あっ…わ、悪い。起こしちゃったか?」
 慌てて額から手を離し、遠坂の顔を覗き込んだ。最初は焦点が合わなかった瞳がゆっくりと自分を捉えていくのを間近で見る。
「………しろ、う?」
「おう。大丈夫か、遠坂」
「え、なんで――あんたがいるのよ」
「見舞いに来たに決まってるだろ。ちゃんと学校終わってから来たんだからな」
 問う言葉に強く答えると。遠坂はバツが悪そうな表情で視線を俺から逸らした。隠し事がばれた子供みたいだった。
「……なんだよ遠坂。俺が来ちゃ嫌なのか?」
「……ううん。来てくれて嬉しい。ありがと、士郎」
 その言葉にほっと胸を撫で下ろし、容態を聞いてみる。
「で、風邪だってことだけどどうなんだ? 熱はあるのか」
「昨日の夜は大分酷かったんだけど……魔術刻印のおかげもあって、今は大分落ち着いて気分は良いわ。……熱も、今は微熱程度よ」
 答える声は少し鼻声だったけれど、それはいつもの遠坂の調子だった。ただ、やはり少し熱のせいか意識がはっきりしてないようだ。
「そうか、よかった」
 張り詰めていた緊張が遠坂自身の様子によって一気に切れる。そんなこちらを見て遠坂が「馬鹿ね」と言う。
「む。馬鹿とはなんだ、馬鹿とは」
「だってわたし、こんなこと慣れてるのよ? ずっと、独りでやってきたんだもの」
 そう言って遠坂は俺から視線を外して天井を見上げた。遠く、手の届かないどこか遠くを見つめる口調で続ける。
「……うん。こんなこと今まで何度だってあった。父さんがいなくなってから、何度だって」
 その、言葉に。
 ガツンと、後頭部を殴られるような衝撃を受けて声を無くす。
 不意打ちの告白。脳裏をよぎる、いつか誰かに聞いた話。
 遠坂の父親であり師。十年前の聖杯戦争の参加者――そして、その戦争で命を落としたという魔術師。
 ――だから、それからずっと遠坂は、
「本当、平気だと思ってたのよ。なのに、今日はどうしてかな……やけに静かに感じちゃって」


 この広い屋敷に、たった独りで。


 熱に浮かされた様な口調の遠坂の独白。
 知っていたはずの事実。だけどその本当の意味を今更ながら突きつけられた気がして眩暈がする。
 俺も遠坂と境遇はあまり変わらない。十年前あの戦争で親を亡くし、切嗣に救われて養子になり、あの広い衛宮の屋敷で暮らすようになった。
 だけど違う。……致命的に違う。
 だって俺には家族と呼べる存在があった。切嗣と、それに藤ねえ。藤村組の人たち。
 それが、思い出の中の衛宮の屋敷と、今日感じた遠坂の家の雰囲気の――絶対で、致命的な差。
 自分が孤独であることも知らずに独りだった遠坂と、孤独を知っていて独りだった俺と。その差は、どれだけ大きいんだろう?
「おかしいなあ。ずっと、独りでも平気だったのに。なんで……だろう」
 本当に不思議そうに遠坂は言う。それが酷く痛かった。だけど遠坂の痛みは遠坂だけのものだ。俺がそれをどうにか出来るだなんていうのは傲慢以外のなにものでもない。――そんなコト、わかってる。
「……ばか。そんなの、病気の時に心細くなるのは当たり前だろ?」
 ならせめて、俺は、俺の出来ることをやらないと。
「だから今日はなんだって遠坂の希望を聞いてやる。特別サービスだ」
「――ん。じゃ……一つだけ、いいかな」
 ゆっくりと首を傾けてこちらを見つめる遠坂に、思わず身構える。遠坂のことだからどんな難関な願いを口にすることか。
 そんなこちらの思いを知ってか知らずか、遠坂は少しの間をおいて。ゆっくりと、噛み締めるように願いを紡いだ。


「名前、呼んで」


「―――」
 息をすることを忘れた。
 そんなことを――まるで、とんでもない願い事のように口にした。名前を呼ぶだなんて、そんな簡単な行為を。
 だけどその名前を呼ばれるなんて簡単なコトが、こいつにとっては今、なにより嬉しいことだなんて――なんだか無性に腹が立った。本当にばかだ。遠坂も、俺も。
 そんなの、何度だって、声が枯れたって呼び続けるのに。遠坂が望むなら。望んでくれるなら。
 荒れ狂う感情をやり過ごし、不安そうに見つめてくる遠坂に頷いて見せた。
「……わかった」

 そうして名前を呼ぶ。
 かつて、彼女が心を許せる存在だった誰かが、そうしたように。

「――凛」
 静寂の中に落ちた声は小さく、震えていた。それがどういう感情によるものか自分でよくわからない。それでも、その響きに遠坂が小さく息を呑んだ。
「凛」
 もう一度。
 今度はさっきより大きく。ただ名前を呼ぶだけのことにこんなに緊張してる自分が可笑しかった。けど、それでも何故かそれ以上にこの身を突き動かす感情があった。
 熱のせいでいつもより潤んだ瞳と赤く染まった頬で遠坂が幼く見えて。
 繰り返すその行為。ただ名前を呼ぶだけのことが穏やかな気持ちを生み出していく。
 ――不意に。アイツの顔が脳裏に浮かんだ。遠坂の名前を呼ぶ時の声と、瞳の色を、憶えている。ああ、今なら解る。アイツがそれに込めた隠しきれない親愛の情、その理由を。今は誰よりよく知っている。
 ずきり、と。
 少しだけ、胸が痛んだ。それが誰に対する感傷なのか知らない。けれど確かに――アイツは、わずかな期間だけでも遠坂を孤独から掬い上げていた。なら、俺がそれを継がないと。他の誰かに任せるなんて出来ない。そんなの、俺が赦せない。
 まだ慣れない大切な響きを。
 いつまでだって俺が。
 三度目に遠坂の名前を呼び、遠坂の瞳がさらに潤んだように感じられた瞬間、俺の視線から逃れるように遠坂が寝返りを打ち顔を背けた。
 その布団に隠された肩が小さく震えている。
「―――――」
 その理由に思い至り、静かに立ち上がった。時計を見やると既に六時を大分回っている。この場を去るのに丁度いい口実の時間だった。
「……俺、お粥作ってくるな。それとポカリ持ってくるよ。水分ちゃんと摂らなくっちゃな」
 言って遠坂の返事も待たずに部屋を出る。深くため息を吐いて背を預けたドアの向こう、小さく押し殺した子供の泣き声が聞こえたような気がした。





 たっぷりと時間を掛けて特製のお粥を作って戻ると、遠坂が身を起こしていた。運んできた盆をベッドの脇に置いて、ポカリを渡す。
 見てるこっちが気持ちいいほどの飲みっぷりで遠坂がそれを飲み干すのを横目で見やりながら、お粥を少しだけ冷ます。遠坂、どっちかっていうと猫舌だからな。
「ほれ、お粥。一人で食べれるか?」
「ん、大丈夫」
 頷く遠坂にお粥とレンゲを渡し、代わりに空になったコップを受け取る。
「美味いか? それと、ポカリもっと飲むか?」
「うん、美味しい。ポカリも……もうちょっと欲しいかな」
「了解」
 本当は聞くまでもなく遠坂の表情が俺のお粥の評価を語ってたけれど、やっぱり言葉でいってもらうとなお嬉しい。足取りも軽く一階の台所へとおり、ペットボトルごとポカリを持ってきた時にはお粥は半分ほどまで減っていた。
 残りを遠坂がゆっくりと咀嚼して食べるのを見届け、時計を見る。八時を少し回ったところだった。
「なあ。俺、今日泊まっていきたいんだけど、いいか?」
「……え?」
 きょとんと、こちらを見返してくる遠坂を真っ直ぐに見つめる。
「いや、俺の我が侭なんだけどさ。その……今日、風邪引いた遠坂をひとりきりにしたくないんだ」
「―――――」
「……駄目か?」
 重ねて問いかける。
 けどこうやって訊いてはみても、心は既に決めていた。例え遠坂が嫌だっていっても傍にいてやりたい。叶う限りすぐ傍、手を伸ばせば届く場所にいたい。
 俺に退く気がないことが今までの経験から解ったのか、少しの沈黙の後に遠坂はため息と共に肩を竦めた。
「――はあ。わかったわ」
「本当か!」
「ええ。あんた、言い出したら聞かないし。部屋は余ってるから好きに使ってくれて構わないわよ」
「わかった」
 ぐっ、とガッツポーズをしてから、俺は未だ身を起こしたままの遠坂を布団を掛けつつゆっくりと横にさせる。
「じゃあ遠坂。他に何かして欲しいことないか?」
「へ?」
「言ったろ? 今日は特別サービスだって。今日くらい甘やかさせてくれ」
 軽く遠坂の髪を撫でるようにして言うと、遠坂は「じゃあ」としばらく考えて言った。
「……あと、おでこに手を置いてくれると……嬉しい、かも」
 布団に隠れるようにしてごにょごにょと続ける。それを遮って強く抱きしめたくなる衝動を、かろうじて残った理性によって押しとどめ言われたとおりにする。
 こんなことしか。こんな風に不器用にしか甘えられない遠坂に、出来る限りの精一杯で応えるために。
「士郎の手、大きいね」
 ああ、男だからな。
 特別大きいとは思わないけど、遠坂の手よりは大きいさ。
 それでも、こんなことくらいしか出来ない。
 ――だから。
「遠坂は少しくらい泣いた方がいい」なんて、声に出しては言えない代わり、掌で額だけでなくその両眼を覆うようにする。
「……士郎? なんで、隠しちゃうのよ」
 きっと泣きたい時に素直に泣けないのは遠坂の長所で、短所だ。
 泣かない毅さと、泣けない弱さ。全部ひっくるめて遠坂で、今日はもう少しだけ踏み込みたかった。
「なあ、凛。そんなに強く在ろうとしなくたって、いいんだぞ」
 遠坂の視界を閉ざして本心を告げる。両眼を覆う俺の掌を外そうとしていた遠坂の手の動きが、止まった。
 そうして視線を遠坂から外してしばらく経ってから、掠れ、小さく震える声で「……ありがと」と遠坂が呟くのを、ただ黙って受けとめた。
 俺が伝えたかったことが遠坂にちゃんと伝わったのかは解らないけど、それでも――その言葉に救われたような気分になったのはきっと、俺もだった。





 どれくらい経ったのか。
「――いつか、さ」
 遠坂が落ち着くのを待って告げる。今はまだ照れくさかったりして、なかなか呼べないけど。
「遠坂のこと、ちゃんと自然に名前を呼べるようになるから、それまで待っててくれないか?」
「……なにそれ。遠回しなプロポーズ?」
「ばっ、ばか!」
 な、なんでそうズバリと言っちまいやがりますかお前はっ。
 ニヤニヤと嬉しそうにこちらを見上げてくるあかいあくま。その悪戯な表情に頬に血が上っていくのが自分でいやになるくらい、わかる。

「ふふ、仕方ないから待っててあげるわよ」
「おうっ、と、遠坂が嫌だって言っても離れてなんかやらないからなっ」
 あーもうどうにでもなりやがれと沸騰した頭で言ったのはなんだかとんでもなく恥ずかしい台詞だったような気がするとか。……我に返って思った時には後の祭りで。
 微かに赤い潤んだ瞳と、さっきよりも確かに上気した頬を緩めて、遠坂は無邪気に微笑んだ。
「うん。……楽しみにしてる」
 ――それが、トドメ。
 今度こそ我慢なんてできなくて、俺は力一杯遠坂の身体を抱きしめた。






 月明かりだけが射し込む深夜。
 ただ抱き合って眠りながら、すぐ目の前の穏やかな寝顔を眺めては火照る頬を自覚して、ふと。


「――凛」

 
 今日の最後にもう一度だけ、その大切な響きを呟いてみた。







戻る


アクセス解析 SEO/SEO対策