Over the Night




 覚醒は緩慢に。鈍痛を訴える意識の浮上と共にやってきた。
 胡乱な意識を抱えたままいつもの癖で動かした掌が掴むのは馴染んだ硬質な宝石の感触ではなく、確かに響く鼓動の音―――どくん、と。
 わずかな喪失感とそれを上回る衝動に深く息を吐けば波紋が水面を走るように意識が今度こそ切り替わる。


 ―――ああ、生きてる。


 言葉にならない吐息を紡ぎ、空っぽを掴んだ掌を強く握りしめた。
 致命傷を受けながらも彼の身体は現界したまま在った。視力を取り戻した瞳で空を睨み、耳を澄まし、気配を探り、周囲に自分以外の存在がないことを確信してから握りしめたままの掌をゆっくりと確かめるようにして開いた―――何も、ない。
 当たり前だ、と意識の隅で自嘲する。
 『それ』は既に持ち主に返した。ずっと借りっぱなしだった、折れそうな心をずっと支え続けていてくれた誰かの証を。ただそれだけのこと。
 そう、それだけのことの筈なのに。どうしてか其処になにもないことに微かな寂しさを覚え、彼は再び拳を握った。
 そうして思う。
 半ば朽ちかけながらそれでもまだ残っているその理由、成し遂げたいと願うことは―――彼女と、そして自らの闘いを見届けること。
 なによりもまだ彼は借りを返していない。
 不思議な縁によって導かれたのはきっと、あの夜の借りを返していないからだと彼は思うのだ。全てを知った今こそ返さなくてはならないとも。
 ……そう、ずっと返したいと思っていた。願っていた。
 瞼をゆっくりと閉じきる。最早摩耗しきった記憶の果て、それでも朧気に覚えている夜の話。心臓を一突きにされ死の淵にあった彼を呼び戻してくれた余りにも潔い横顔。そんなものが暗闇に浮かんで消えていく。
 ―――それが誰だったのか。薄々気付いてはいながら彼はずっと確かめることをしなかった。否、出来なかった。どんなに細い糸でも繋がっていたかった。いつか返す日を夢見ながらその日が来ることを望み、そして同時に恐れてもいたのだ。確かめることによって絆が途切れることを。
 そうして生涯、手放すことなく彼はずっとそれを持ち続け―――

 奇しくもそれは再び彼と彼女を繋ぎ、唯一無二の宝石を縁として彼はサーヴァントとして彼女の元へと召喚された。
 
 その彼が現界したままということは聖杯戦争が終わってないことを意味し、同時にまだ彼がその役目を終えていないことを示していた。
 身体は満身創痍。受けた傷を数えることすら馬鹿らしく主とのラインは未だ断ち切られたまま、それでもこうして存在している。だったら立ち上がらなければ。未熟な己にすら出来たことを出来ずにどうする? 思い出される剣戟の響きに促されるようにして、彼は身体に魔力を通す。
 何度だって繰り返そう。愚かだと言われようが立ち上がる理由がそこにあるのなら。背けぬ誓いが折れぬうちは―――幾度だって、立ち上がってやろうと握りしめた拳に思う。

 闘えと彼は自らに託した。少女を護り、この戦争を終わらせ、自らを越えて行けと託した。そのために、立ちはだかる英雄王を衛宮士郎が斃しきれ、と。

 そして、サーヴァントとして現界した聖杯戦争が未だその幕を降ろしてはいないのならば、これは彼自身の闘いでもある。他の誰でもなく、エミヤシロウにとっての譲ることの出来ない闘いなのだ。
 誓いはまだ此処にある。―――彼女を、己が主と唯一人認めた少女を見守ること。 
 裏切りをしてなお、その思いは今も揺るがず在った。でなければどうして、かつての自分を思い出したりするだろう?


『…………まったく、つくづく甘い。
 彼女がもう少し非道な人間なら、私もかつての自分になど戻らなかったものを』


 無意識に零れ出た言葉に嬉しげな響きが宿ったことを否定できない。
 躊躇いもなく駆け寄ってきた少女の瞳には彼の裏切りに対する負の感情を見つけられず、あろうことか彼女は彼の傷を心配する言葉を投げかけてきた。
 その瞬間にこそ、彼は己の敗北の理由の一欠片を見出した。彼女が正しかった。遠坂凛は間違った道を選ぶことはないと知っていた―――もう、はっきりとは思い出せもしない筈の日々の中で確かに。
 だからこそ、一発くらい殴ってくれればよかったものを……と、そんな八つ当たりじみたことを思わずにいられない。
 ―――遠いいつか、『彼女』がそうしたように。
 遙か遠く、最早手を伸ばすことすら出来ぬ場所に置き去りにしてきた筈のモノが疼く。
 あの時感じなかったソレが今こんなにも痛く、錯覚だと笑い棄てることすら出来ぬほど深く胸を穿つ。
 今更、思い知ってどうしようというのか。
 自ら棄て、顧みることすら赦されぬと解っていた日々の重みを。
「―――く、」
 彼は口の端を歪め笑う。それは決意を宿した響きを持って廃墟に落ちた。静寂は破られ、時は動き始める。あの時から止まったままだった或るひとつの彼の時間。
 摩耗した思い出に背を向けるだけだった昨日まで。今なら―――今だったら、向き合える。此処にこうして確かな答えを取り戻すことが出来たのだから。



 少年が少年のままで在る限り彼女の存在は決して消えることなく、響き続ける。


 
 閉じていた瞼を開き、視線を彷徨わせれば崩れ落ちた瓦礫の間を縫って射し込む紅の光に今が陽の落ちようとする時刻だと知る。
 恐らく最終決戦は夜半過ぎ。
 今、こうして存在出来ていることが世界がその抑止力たることを守護者の彼に望んでいるからだとしても構わなかった。 
「……借り、返さないとな」
 ぼんやりと呟いて薄く笑った。
 この数日、振り返ればたった数日のことがどれだけ楽しかったことか―――彼女はきっと知るまい。その剣となり、肩を並べ、共に夜を翔ることがどれだけ嬉しかったのかきっと知らないだろう。それでいい。
 気がつけば自分は彼女にもらってばかりで。
 これが裏切った彼女に対する罪滅ぼしになるなどとも思わない。自分にも、彼女に対してもそう思うことは冒涜になるだろう。
 ただ胸を張るために彼は立ち上がらなければならない。無様など承知。這ってでも進めと叫ぶ声は遠い残響―――最後まで闘い抜くと決めた。歪だとしても破綻していると知っていても正しいと信じたこの道を歩くと誓ったのだ。
 彼女がまたそうで在ったように、貫き通そう。この身が英霊なれば―――闘いがまだ終わっていないのならば。
 ―――凛。と声に出さずに彼はその名前を組み立てた。
 君が諦めない限りこの身は君の力になろう。同じコトをきっと『俺』も思っている。奴に力が足りないことは重々承知。託した以上は見届けよう。そう、強く思う。
 痛みを無視しながら立ち上がり、もう一度強く拳を握りしめた。その、掌に食い込む爪の痛みこそが立ち上がり続ける気力をくれる。
 そうして、廃墟と化したアインツベルンの城を見渡した。
 瓦礫に埋もれ、炎によって焼き尽くされたこの場所はよく似ている―――彼にとっての終焉と胎動の荒野に。
 ならばこれ以上相応しい場所はあるまい。―――もう一度、始めるために。
 謝らない代わり、此処にもう一度得たいつかの答えを示そう。他の誰でもなく、遠坂凛に。
 ―――そして、伝えよう。
 遠いあの日に言えなかった言葉があって、今もまた伝えていない言葉がある。
 懺悔でもなく。後悔でもなく。そんなモノではなく、前を向くための―――誓いと約束を彼女に。
 黄昏に染まる空に想いは溶けゆき、



 

―――さあ、夜を越えて、





 赤き外套を翻し彼は赴く。



 

―――運命の夜明けへ。








 to be 『stay away』













 ―――そうして。
 朝焼けに透け消えるように。
 ひどく穏やかに緩やかに遠くなっていく意識で最後に思う。



 なぁ、遠坂。
 後悔ばかりだったオレの在り方でも、それでももう一度『遠坂凛』に出逢えたこと、今度こそこうして胸を張って別れることが出来たことは―――相手が誰だろうと、心から誇ることが出来ると思うんだ。
 だから、さ。
 ……ありがとうな。


 遠いあの日には伝えられなかったことを言うよ。
 

 衛宮士郎オレは、遠坂凛(おまえに逢えて―――本当に、よかった。










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